走るきっかけ


小学校の頃はガキ大将で、ケンカに明け暮れていました。よく怪我もしました。
時には血を流すような喧嘩もしていた悪ガキで、
ずいぶん母親に心配をかけました。今振り返ると本当に親不孝者でした。

冬になると、近所の子供たちを無理やり引き連れて、「あの神社まで走るぞ」と言っては、よく走ってました。
2~3キロくらいの距離だったと思います。小学校のマラソン大会は楽しみでした。
そのころから、走ることが好きだったように思います。

高校生の時、東京オリンピックが開催され、円谷幸吉選手がゴールを目前にしてイギリスの選手バジル・ヒートリーに
追い抜かれ、銅メダルになったシーンが今もって強烈に脳裏に焼き付いています。
この時を境にして、テレビでマラソンの中継を見るのが好きになりました。
テレビに向かっては、「がんばれ」「我慢するんだ」「離れるな」「根性出せ」と、
我を忘れるくらい夢中になって応援してました。
「いつか自分も走ってみたい」そんなことを思うようになりました。

30半ばを過ぎたある日、坂道を登るときに「きつい」「息が切れる」と、苦しさのあまり顔がゆがみました。
まだ若いと思っていた小生には大ショックでした。愕然としました。
知らぬ間に、体力が相当落ちていることを実感しました。
「これはいかん」「どうしよう」「何か運動をしなければ」と、痛感したのでした。

そのころ、老後は自分の足で日本全国をゆっり旅してみたい。温泉巡りをしたいというのが夢でした。
そのためには、何としても足腰がしっかりした丈夫な体でなければならない。
人様のお世話にならなければ動けないようでは、夢は果たせない。
「老後は何としても元気な体でいたい」「人様から介護を受けたくない」「家族に迷惑をかけたくない」
「寝たきり老人なんて絶対に嫌だ」と、強く強く思いました。
「運動しよう」という気持ちが大きく膨らみました。

そのころ、長男、次男は小学生で、小生は子供会のソフトボールの監督をしておりました。
子供達には、練習前にグラウンドを2キロくらい走らせました。
小生も子供たちといっしょになって走りました。これが「走るきっかけ」です。

もっと走りたいという気持ちが抑えられなくなり、子供二人といっしょに近くの公園の周りを約10分くらい走ることから、
小生の「マラソン人生」がスタートしました。
土・日曜日の休みは、近くの明治用水緑道へ行って走りました。
2キロから3キロと少しづつ距離を伸ばし、3年後にはゆっくりですが10キロまで走れるようになりました。

三男が誕生した平成3年に、千葉県の千倉マラソン(ハーフ)に初めてレース参加しました。
マラソンの知識など何もない小生は、「何とかなるだろう」と軽く考え、
足を故障していたにもかかわらず、強行出場しました。
ところがどっこい、2キロくらい走ったところで足の痛みに我慢できず、無念のリタイヤとなり、
収容者に乗せられるという屈辱を味わいました。

その時の悔しさが忘れられず、「次は絶対に完走するぞ」と、
何かに吸い寄せられるように、マラソンにすっかり取りつかれてしまい、のめり込んでいきました。
タイムは、走るたびに伸びていき、キロ4分台で走れるようなりました。

初マラソンは、平成4年11月8日の『いびがわマラソン』でした。
タイムは、3時間12分53秒。
当時は、毎朝自宅周り一周1kmのコースを、7キロくらい走っていました。
疲れ切ってゴールした後は「フルマラソンとは、これほどまでに苦しいものか」と思いました。
1時間ほど横になったままで、歩けなかったのをよく覚えています。
「何としてもスタミナをつけなければ」と、強く思いました。

初サブスリーは平成5年1月31日、2回目のフルマラソン、千葉県の館山若潮マラソンで達成しました。
タイムは、2時間56分20秒。
前々週の土・日曜日に、二日続けて40kmを走ったのがよかったのか、
最後までスタミナが持ち、気持ちよく走ることができました。

サブスリーを達成するには、相当厳しい練習をしなければ成し遂げられないと思ってましたので、
あまりにもあっけなく達成できてしまい、「な~んだ、こんなものか」と、感激はあまりなかったように思います。

ところが、その後タイムはそう伸びることはなく、壁に当たってしまいました。
年月は過ぎても、タイムが伸びることはありませんでした。
平成14年5月19日の富山マラソンが78回目のフルマラソン出場で、
久しぶりに、2時間54分58秒という好タイムで、ゴールすることができました。
失いかけていた自信が戻り、再び希望が湧いてきました。

まだしばらくは、記録を狙ってがんばって練習に励みたいと思っています。